ATOMIC創業70周年 オーストリア・アルテンマルクト本社&ザールバッハ世界選手権取材記/前編
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ヨーロッパアルプスの中央で70年。もっと速く、レースで勝つために、スキー開発と向き合ってきたアトミック。アスリートのためにプロダクトを作り、アスリートはプロダクトの進化のために協力を惜しまない。Red Tension(レッドテンション)。彼らを結びつけているのは「赤い緊張感」だ。
「レースに戻ってきたことにとても興奮している。トップの状態に戻るにはまだまだやらなければいけないことがたくさんあるけれど、私たちはここまで細部の一つ一つに焦点を当ててやってきた。そして今日レースの強度を感じ、困難なコンディションの中でピステを滑り切った。私はこの一歩を踏み出すためにかけてきたチームの仕事に感謝するとともに、そのすべてを誇りに感じている」
1月31日に行なわれたフランス・クーシュベルでのアルペンスキーワールドカップ・スラローム第7戦に出場したミカエラ・シフリン(アメリカ)は、自身の挑戦が「成功した」とインスタグラムで報告した。2カ月前にアメリカ・キリントンで行なわれたワールドカップ・GS第2戦の競技中に転倒し、腹部に深い刺し傷を負って以来の復帰となった。
2月5日には「クーシュベルでレースに復帰した時と同じくらいワクワクしながら、チームも私も100%に戻すために一歩一歩進んでいきたい。毎日が新しいチャレンジの連続で、これが小さな目標ではないことを実感している」と、オーストリア・ザールバッハで開催されている世界選手権への出場を目指していることが伝えられた。
しかし、10日にアップされたメッセージでは「私は木曜日に行なわれる世界選手権GSの準備のために、持っているエネルギーのすべてを注ぎました。だけど、今はかなり遠くに感じている。GSに必要な強度を備えスタートを切るためには、いくつかの精神的な問題を乗り越えなければならない。正直なところ、このような闘いを経験することになるとは予想していませんでした。いつものように飛び込んで、情熱とレースへの思いを持って臨めば障壁を上回ると思っていた。たぶん時間が経てば解決すると思うけれど、私はまだそこに至っていない。心から楽しみにしていたチャレンジなのに、これほどまでに恐怖を感じることになるとは」と、突きつけられている現実を前に胸の内を明かした。
それと同時に「たった今コーチたちが、ブリージー(ジョンソン)と私がペアを組み、チームコンバインドに出場する道が開けたことを知らせてくれました」と希望がつながったことも語られた。
1990年代中盤から12年連続でトップに君臨
2月、日本のアトミックスタッフとスキー用品販売店の代表団とともに、オーストリア・ザルツブルク州にあるアトミック本社へ向かった。創業70周年を迎える同ブランドから送り出される新レッドスターシリーズの発表を聞くためだ。
アラスカ上空を経由してザルツブルク空港に降り立ち、同市の中心部から車で南に1時間半程度、本社が置かれているアルテンマルクトに到着。広く深い青空に覆われた小さな町は、オーストリア名産のワインやサラミなどの食料品、アルペン世界選手権の開催にちなんで発刊された興味深い雑誌などをそろえた中型のスーパーマーケットこそ発見したが、それ以外は生活するための必要最小限の機能を備えたのどかな風景が広がっていた。
ザルツブルク州にあるアトミック本社
スキー環境は抜群に良く、車で南に10分ほど行けば、ヘルマン・マイヤーが少年時代に滑り込んだスキー場であり、ワールドカップの会場としても知られるフラッハウに、東に30分ほど走ればナイトレースで有名なシュラドミングにたどり着く。さらに西に進めばツェルアムゼーやカプルーン、その奥にはクラシックレース・ハーネンカム大会が開催されるキッツビューエルや世界選手権の開催地であるザールバッハへと続く。
ワールドカップレーサーのサービスマンとしていくつかのメーカーを渡り歩いたのち、アトミックに8年間勤務し、今回発表される新しいレッドスターシリーズの開発責任者の一人であるゲルハルド・ライターは「何かあれば数分でスキー場に行って、スキーやブーツをテストすることができる。アルプスの“中”にいる私たちの環境は特別だと思う」と話した。
ヘルマン・マイヤーが育ったフラッハウスキー場
スキーメーカー・アトミックが誕生したのは1955年。初代社長のアロイス・ロールモザーにより現在の本社から約5km離れたバグラインという場所で始まった。初めに生産されたスキーは40台で、地元の木材を使い、手彫りにより製作されたという。その後徐々に生産台数を増やしていき、68年のグルノーブル冬季五輪・女子ダウンヒルでは、アトミックスキーを使用したオルガ・ポールが、オーストリアに唯一の金メダルをもたらす。71年からアルテンマルクトに拠点を移し、本格的な生産を開始。ヨーロッパの有力メーカーを統合しながら事業を拡大し、96年には懐かしいと感じる読者も多いことだろう、あの「ベータ・テクノロジー」を開発。そして90年代中盤からアトミックレーシングの黄金期が始まる。
95/96シーズンのワールドカップでノルウェーのラッセ・チュースが年間総合優勝を獲得。翌96/97シーズンにはフランスのリュック・アルファン、97/98シーズンは長野冬季五輪でスーパーGとGSの2つの金メダルを獲得したヘルマン・マイヤーがワールドカップでも総合チャンピオンの座についた。白馬八方尾根で開催されたダウンヒルの競技中にバランスを崩して宙に舞い上がり、そのまま防護ネットを突き破って50m近く転落した3日後のスーパーGに出場し、勝利の雄叫びを上げる姿に“不死身”のイメージを植えつけられたファンも多いことだろう。
37回のWC総合優勝を記録した歴代のスーパースターたち
98/99シーズンにはチュースが総合王者を取り返し、その後はマイヤーと、同じくオーストリアの高速系で強さを発揮したシュテファン・エベルハルターが総合王者を争って激しく火花を散らした。99/00、00/01シーズンはマイヤーが、01/02、02/03シーズンにはエベルハルターが、そして03/04シーズンではまたマイヤーが大クリスタルトロフィーを獲得。その後も04/05シーズンのボーディ・ミラー(アメリカ)、05/06シーズンのベンジャミン・ライヒ(オーストリア)、06/07シーズンのアクセル・ルンド・スヴィンダル(ノルウェー)と、アトミックは12シーズン連続でアルペンワールドカップのトップに君臨し続けた。